ウィーン観光情報武田倫子の 「行った・見た・聴いた」モーツァルトが持っていたリズム2/2

モーツァルトが持っていたリズム2/2

  モーツァルトに明け暮れた2006年度のウィーンも師走を迎え、未だ不明な彼の墓にも雪が降り積もるシーズンとなった。2005年度に日本の新聞紙上でも紹介された、モーツァルトの「最後の肖像画」と称されている絵が、ベルヴェデーレ上宮(このシーズンのみの特別展示)に掛けられたが、見ていると、本当はーどんな人だったのかなーと現実味を帯びて来る感がある。作曲家の中でも、モーツァルトは常に不思議な存在で、謎を問いかけられて来るような気がするのだ。

 この1年間の朝のラジオでは、対比の意味でのサリエリの美しい作品の数々や、ヴォルフガングへの予兆を感じさせる、父レオポルドの作品。そして、きれいだけれど何ともインパクトの弱い、息子フランツ・クサヴァーの曲もよく取り上げられた。この番組では、アーノンクール氏が何回か登場。モーツァルトの音楽に対する見解の中で、特に「「テンポ」」には、かなりの注意を払っている事が述べられていた。

 モーツァルトはオペラに於いては、音楽とドラマとの関連性の面では、特に抜きん出た存在の作曲家であり、指揮する上では、各々のキャラクターの色付けを、テンポとのコントラストで、どのように構成してゆくかの妙味が語られた。時には、声はメロディーに拘束されずに、≪気配のみ≫に留める。また、声で表現するというよりは、聴衆には音楽の空気を送る事を考える。などが、オペラの中から実例を引いて解説されていて、おもしろかった。

 日本公演での前に、10月末、オペラ座でウィーンフィルとの特別公演、モーツァルトの「交響曲第40番」をアーノンクール氏の指揮で聴いた。音楽に哲学を持っている巨匠ならではの考え方が伝わり、興味深い創り方であった。美しさのみにとらわれず、各々の声部の引き出し方やテンポの動かし方によって、その差異を際立たせたので、自ずと、よく知られているこのメロディーは、流れのみで聴く事が無くなり、耳慣れたこの名曲が新しく感じた。何よりモーツァルトが生きて動いているようなりアル感があった。

 この年の春にも、同氏の指揮により、アン・デア・ウィーン劇場で、「第一戒律の責務」を聴いた時には、モーツァルトが11歳にして、すでに本能的に人間の声を、殊に女声を熟知していた事には驚かされた。ーわっ、ヴォルフガングが、声で遊んでいるー。と、目が覚める思いで、後に、完結される数々のオペラの原型を目の当たりに出来て、全く愉快だった。ある意味では、子どもの時代の作品の方がより、楽しく感じられる。今の時代に、生きていて子どもの彼なら、コンピューターを駆使して、どんな作品を作るだろう?。

 相当な報酬を得ていながら、賭博のために借金だらけであったヴォルフガングは、その遊びのリズムを止める事が出来なかったのだろうか。神と直結していた天才でありながらも、俗に揉まれていた特異な人物。作品そのままのテンポで人生を駆け抜けて行った人。私たちに、夢を与えつつ、モーツァルトはその死と共に、永遠に謎の人なのかもしれない。

2006年12月たけだのりこ